ふふふ活動の記録 2013年7月21−22日 福島第1原発の周辺地域を訪ねて
< 2013年7月21−22日 福島第1原発の周辺地域を訪ねて >
   

東日本大震災とそれに伴う福島第1原発の事故から2年4ヶ月が経過しました。私は震災から1ヶ月後の4月10日に福島市を訪れていますが、今回はそれ以来の訪問です。スローフード福島の皆さんとお会いしてお話を伺うこと、そして原発事故の周辺地域がどのような状況なのか、自分の目で確かめるためにひとりで訪れました。
朝の5時に東京から郡山駅に到着しました。駅前は「うねめ祭り」を控えているということで、たくさんの提灯で飾り付けられています。ここでレンタカーを借りました。

   

郡山から東へ約12キロの三春町を抜けて、浪江町方面に車を走らせました。田村市に入ってしばらくすると「除染作業中」の看板やのぼりが見られるようになりました。この日は日曜日だったので作業はお休みのようでしたが、道路脇や林の脇に、ユンボなどの重機が置かれ、大きな黒い袋がいくつも並べられています。

   

除染された放射線を多く含む物質(木の葉や土など)の布袋の行き場がないという報道はよく目にしていましたが、こんなに普通にそこここにあるとは思っていませんでした。道路脇には地域の方たちによってきれいに植えられた花壇があり、その脇に除染された黒い布袋が置かれています。普通の暮らしの中にそれはありました。

   

これは、除染中の風景です。このように道路脇の木は切られて、林内の枯葉や表土が剥ぎ取られています。この作業を広大な土地でやらなければならないとは、気が遠くなります。先日除染の費用が5兆円にのぼると試算されたのが頷けます。

   

道路脇にあった「仮置き場」です。国では、これらの放射線物質を、3年間はこの仮置き場などで保管して、その後福島県内の「中間貯蔵施設」で保管、30年以内には「県外」の最終処分施設に搬出すると言っています。「中間貯蔵施設」は福島第1原発の周辺地域に設置する方向性のようですが、果たして県外の最終処分場など実現できるのでしょうか。
除染で取り除いた土壌等の処理の流れ(環境省のページ)
中間貯蔵施設について(環境省のページ)

   

葛尾村(かつらおむら)から浪江町の方向へ進んでいくと、「帰還困難区域につき通行制限中です」という看板が見られるようになり、この「一時立入受付所」があらわれました。「帰還困難区域」には9時〜15時に許可証があれば立ち入ることができます。ただし、原則は月1回の自宅等へ一時立入りで、不要不急の立入りや15歳未満の方または妊娠している方の立入りはできません。(この場所の放射線量は0.41マイクロシーベルトでした) 私はここで来た道を引き返しました。

   

道路脇にはきれいな山百合がたくさん咲いていました。北海道では見ない山百合。当然のことですが、草花や樹木、動物や鳥たちは、原発事故のことなど知りません。体の小さな彼らがどんな影響を受けているのか心配で、申し訳ない気持ちです。放射性物質は食物連鎖を通して生態系の中で循環しているといいます。移動能力の高いクマの肉は岩手、宮城、山形、群馬の全域と、福島、新潟のほぼ全域で制限されています。

   

「放射性物質移行実証試験ほ場」という小さな看板が立っていました。放射能で汚染されてしまった農地に農作物を試験栽培して、栽培された農産物の放射性物質を調べる実験です。葛尾村では水稲(あきたこまち玄米)、にんじん、白菜、春菊、大根、いんげん、資料用とうもろこし等が栽培されたと村の広報にありました。

   

葛尾村は全村民が避難しています。村役場駐車場には、一時帰宅した人たちの放射線量を測る、スクリーニング会場が設けられていました。写真は村役場横の大きな線量計です。数字は0.275マイクロシーベルトでした。危険な値ではありませんが、北海道の10倍の値です。

   

本当なら、この季節は稲がすくすくと育って水田の緑が美しい景色が広がっていたはずです。見渡す限りの雑草畑と、カーテンが引かれた家々。葛尾村にはあまりにも悲しい農村風景が広がっていました。

   

「避難指示解除準備区域」への通行制限はありません。私も特に許可を受けずに、車でこの区域に入ってきました。すなわち誰でも入れる区域なので、盗難も多いのでしょう。「特別警戒隊」が組織され、パトロールの車やパトカーが頻繁に地域を巡回していました。

   

奇しくもこの日7月21日は参議院選挙の日でした。放射能汚染を受けた地域でも地区の集会所などに投票所が設けられていました。葛尾村のような状況をしっかり見れば、ほかの原発の再稼働を進めるような政治はありえないと、誰もが思うはずです。もう政治には期待しないという声も多く聞きますが、やはり政治を変えなければ日本は変わらない。いや国民が変われば政治も変わると信じたい。

   

地域によっては、除染作業を行っている脇にも水田が広がっています。これにはやはり驚きを隠せませんでした。普通に考えれば、この景色を受け入れるのは難しいと思います。もちろん出荷されている農産物はきちんと検査されているのでしょう。それでも、原発事故後の国の対応を知っている国民は、それを信じることができるでしょうか。そしてそれを風評被害と呼んで良いのでしょうか。

   

二本松市岩代にある道の駅「さくらの郷」に来ました。二本松市は比較的放射線量は低いとされていますが、さきほどの葛尾村からは30分の距離です。日曜日だったので道の駅はとても賑わっていて、農産物も普通に売られています。お腹が減ったので何か食べようと思い、地域の方が屋台で提供していた「新小麦の手打ちざるうどん」を食べました。かき揚げがついて350円。

   

道の駅には普通の幸せな景色が広がっています。家族連れがおいしそうに手打ちうどんを食べています。福島に早朝着いて、正直に言うと食べ物がなかなか喉を通りませんでした。コンビニのパンでさえ。でも「新小麦の手打ちざるうどん」食べました。もちろん、おいしかった。複雑です。

   

14時に福島市内のホテルに着きました。今日はスローフード福島の総会です。スローフードの仲間に会うために、福島に来ました。総会後の講演会では、二本松市東和の関元弘さんの小さな地域の「酒ツーリズム」のお話を伺いました。オリジナルのビールやワインを蚕生産の遊休施設をどんどん使って、地域の方々と醸し出しています。地域がつながり、世代がつながり、都会とつながる。全身から楽しさが伝わる講演でした。桑の実のビールもさわやかです。

   

スローフード福島のみなさんと交流会で囲んだ食卓は、驚くほどおいしいものでした。ひとつひとつの素材に存在感があり、そして輝いていました。日本酒ももちろんおいしかった。このお店の名前は「たなつもの」は古語で「種」のことだそうです。オーナーの廣田さんにお話を伺いました。熟成肉、有機栽培の穀物、国産そして福島の食材、内部被曝への配慮。素晴らしい食材を選んでおられると、食べて感じました。

   

スローフード福島の仲間たち。写真は総会、講演会、交流会と終えて、2次会の最後に撮った写真です。中央がリーダーの須藤陽子さん。有機農業を志している方です。後列の右が新しい事務局長の田島さんです。福島にもチョイ悪軍団が存在し、本当に楽しいお仲間たち。そして、それぞれが震災後大きな苦労を抱えて奮闘していらっしゃいます。みなさんのお顔を拝見して、ほっとしました。そして同時に気が引き締まりました。福島のみなさんのために自分ができることは何だろう。

   

スローフードジャパンの副会長石田雅芳さんから、前日東京のリーダーズ会議の折に「父をよろしく」と聞いていました。お父様石田利勝さん。野鳥観察が趣味という、とてもチャーミングな方で醸造会社の重役を務めていらっしゃいます。翌22日にはご自宅に招いていただき、東日本大震災の時の恐怖やご苦労されたお話を伺いました。市内の信夫山(しのぶやま)で育てられてきた北限のゆずを、長く生産者のおばさんたちと協力してポン酢にしていたが、放射線量が高くて使えなくなってしまい残念とのこと。ご自宅も除染の対象になっているそうですが、線量が低いので再来年くらいの予定ということでした。

   

石田利勝さんに見送られて、レンタカーで南相馬市を目指しました。途中、までいの郷「飯舘村」を通りました。飯舘村もまた全村民が避難をしています。南相馬市に到着して、すぐに市役所を訪ねました。窓口にはたくさんの市民が様々な手続きに来ており、壁には全国からの激励のメッセージが貼られていました。市の職員はとても忙しそうでした。

   

市役所のロビーには大きな画面で、リアルタイムの放射線量が映し出されており、市民が不安気に画面を見ていました。この画面は、原子力規制委員会がインターネットで発信しています。(原子力規制委員会のページ
また、あらためて、追加被ばく線量年間1ミリシーベルト(毎時0.23マイクロシーベルト)について考えました。この日の南相馬市役所は0.265マイクロシーベルトでした。

   

南相馬の道の駅に立ち寄りました。大変立派な道の駅です。そこにネクスコ東日本の作った常磐自動車道の工事予定図があり、本当に原発事故後のものなのか目を疑いました。福島第1原発のすぐ横を通る自動車道の工事を再開し、平成26年度内の開通を目指しているのです。「やるといったらやる」といった雰囲気です。原発と同じにおいがします。

   

道の駅には、福島県産の野菜もたくさん売られていました。佐藤知事の名前で放射性物質の検査に合格していると表示があります。警戒区域および避難指示区域では生産していないとありますが、すぐ隣接している地域では生産しています。正直に言って、現状を知らない方に「応援してください」と言えるような状況ではないと、私は感じました。もちろん、それは福島の皆さんのせいではありません。
私はこの道の駅で地元新聞社の発行する写真集と桃を4個買いました。

   

南相馬から国道6号線を福島第1原発に向けて南下します。この先は通行止めなのは分かっていますが、行けるところまで行ってみようとレンタカーを走らせました。南相馬市の小高地区は原発から20キロ圏内だったことから、震災後一年あまり立ち入ることができませんでした。昨年の4月に解除されたものの、津波被害の爪痕がまだ色濃く残っている地域です。現在でもボランティアによる活動が続けられています。<南相馬市ボランティア活動センターのページ

   

6号線をさらに進み、こちらも全町民が避難している「浪江町」に入りました。街の入口では、ここでもスクリーニングが行われています。

   

浪江の街を過ぎて、双葉町の経界直前の小高い丘を上がったところで、通行証確認の検問がありました。誘導にあたっているのはどうやらALSOKの警備員さんのようです。ざっと見て10名以上の方が任務に当たられています。通行証はないのでここで引き返します。あとで地図で調べたら、この地点は原発からわずか6.5キロの距離でした。この先の双葉町は放射線量が高く、帰還のめどさえたっていません。

   

引き返して浪江町の市街地にやってきました。市街地は「避難指示解除準備区域」となっており、日中は自宅などに帰って作業をしても良いことになっています。4年後の帰還を目指して、上下水道の整備などが始められたようです。しかし、まだ街中には人影もなく、2年4ヶ月前のあの日から時間が止まったままになっています。

   

地震で崩れたままになっている古い家、窓ガラスが割れたままになっているお店、お店の宣伝用の電光掲示板が誰に向けてかに光り続けています。

   

浪江町役場の前には、こんな看板が掲げられています。きっと住民は努力して「日本一安全安心なまち」を作ろうとしていたのでしょう。しかし大きな利権がらみの国のエネルギー政策と、それを経済の論理で受け入れてしまった行政や議会の判断によって、結果的に現在は人が住めない状態になっています。この現実をもっと直視して、原子力発電から撤退すべきでしょう。再稼働どころか海外に売り込もうなんて、どういう神経でしょうか。

   

帰り道、飯舘村を走っているとやけに警官の姿が目立ちました。何かあったのかと不安に思いながら市街地に入ると、多くの方が日の丸を片手にたっています。そのうち、パトカーに先導されたセンチュリーとすれ違いました。これだけ多くの苦労を背負いながら、飯館の方々は日の丸を手に天皇陛下を歓迎していました。日本人とは、福島県人とは、そういう心清き人々です。

   

2013年7月現在の福島第1原発周辺地域の避難状況は、福島民友新聞社のページでご覧ください。詳しく掲載されています。

リアルタイムの放射線量は、原子力規制委員会のページでご確認ください。

報道などで伝えられていますが、2013年5月28日に福島第1原発から20キロ圏の9市町村に同心円状に敷かれた警戒区域は、設定から約2年1カ月で解除され、現在は「帰還困難」、「居住制限」、「避難指示解除準備」の3区域に再編されています。警戒区域解除と聞けば聞こえは良いですが、放射線量に沿って具体的に区域を指定しただけのことで、いまだ、浪江町、双葉町、大熊町、富岡町、楢葉町、葛尾村、飯舘村の全住民が、そして田村市、川内村、南相馬市、川俣町の該当地域の住民が避難を余儀なくされているのです。

 

福島第1原発の周辺地域を訪ねて

 東日本大震災と津波で亡くなられた多くの方、そして津波や原発事故の被害を受け、今なお不自由な生活を強いられている多くのみなさまに心からお見舞い申しあげます。
 今回、福島を訪れて本当に良かったと思います。実際にこの目で見て、放射能の恐ろしさと、除染や復興の難しさを実感しました。また経済的な応援のために、この現状を「風評被害」と楽観的に歪曲して伝え、消費者に産物の購入を求めるのは、やはりおかしいと感じました。それほど目に見えない放射能のリスクは明らかに存在します。
 しかし一方で、この地で暮らしていく覚悟をされた方々へ、自分たちはどんな協力ができるのか考えました。まず、国や県など顔の見えない情報ではなく、自分がつながりを持っている方々、私の場合はスローフードの仲間の感性や言葉を信じようと思いました。それは、スローフード運動を通して、有機栽培などの形で安全で安心な食材を生産したり関わって来られた方々が、もっとも危険である放射能について寛容な訳がないと感じたからです。つまり、福島の現状を直視し、そこで暮らすリスクを承知の上で、福島の未来を考えていらっしゃる方々の言葉や行動を、信じることからはじめようと思いました。福島の皆さんと共に、放射能にしっかり向き合っていくことは、日本の電力のリスクを一部の方々に押し付けて物質的な豊かさを得てきた日本の国民として覚悟すべきです。
 これからも長い戦いが続くでしょう。それでも人と人が信じ合い、力や知恵を出し合うことで克服できるものと信じています。

2013年7月26日 山本敬介


<行動記録>

2013年7月21日(日)
郡山駅−国道288−三春町−国道288−田村市−国道288−立入り制限(引き返す)−国道399−葛尾村−県道253−立入り制限(引き返す)−国道399−立入り制限(引き返す)−県道50−田村市−県道303−国道459−二本松−国道349−国道114−福島市

2013年7月22日(月)
福島市−国道115−国道349−国道399−県道12−飯舘村−県道12−南相馬市−国道6−南相馬市小高区−国道6−浪江町−立入り制限(引き返す)−国道6−浪江町−南相馬市小高区−南相馬市−県道12−飯舘村−川俣町−二本松市−国道4−郡山市−福島空港

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<東日本大震災被災地を訪ねて 2011年4月10-11日>

 
 

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