高野さんのお話を伺っていて、ひとつの疑問が頭をもたげる。ヒッチハイクの2トン牧草トラックから偶然降ろされただけの二風谷で、一生暮らす決断を高野さんはどうしてできたのだろうか。高野さんが二風谷で暮らそうと思ったのは、アイヌ彫刻に魅力を感じたからだらうか…。私の質問に高野さんはきっぱりとこう答えた。「やっぱり”人”だね。」師匠貝澤守幸さんとの出会いがすべてを決断させた。弟子入りする際には、「俺が大工になったらおまえも大工にならんとダメだぞ。石屋になったら石屋だ。」と言われたという。なるほど、弟子に入るといことはそういうことなのか。
ところで、アイヌの世界では水や火や風や動物、植物、道具に至るまでが神であるという考えである。これは日本人の宗教観である八百ろずの神の原型と言うべきものだ。昔は古老たちが週に3回も4回もカムイノミ(神への祈りの儀式)を行っていた。古老たちはきちんと手順に従って、猟に入る前、木を切る前、あらゆる場面で火の神や水の神への祈りを怠らなかった。しかし、これらも現在では形骸化していると同時にどんどん省略されてしまっているという。人間が日々の暮らしの中で最も大切にしてきた神への祈りは、経済優先社会の中ではすっかり無力になってしまった。本来神への祈りを捧げるべき祭りはただの経済効果のためのイベントに成り下がってしまっている。ここに現代社会の歪みが凝縮されているように感じる。自然の中で、地球の上で、生かされているという感覚を現代人はすっかり忘れてしまっている。この感覚をアイヌの世界観は教えてくれるのだ。本当に、よさこいソーランは一体何をおまつりしているというのか。
そろそろ日も傾いてきた。風も治まり、台風もどうやら大事なく過ぎ去ろうとしているようだ。そろそろ帰ろうかと立ち上がった時に、小学生が3人、普段からそうしているのだろう、何も言わずにどかどか入ってきた。そして、そのうち2人の男の子は当然のようにイスに座ってゲームボーイをはじめた。聞けば3人は守幸さんの曾孫にあたる。高野さんにとっては孫のようなものだ。この10年ほどで二風谷の子供たちの感覚は随分と変わってきているという。学校では総合的な学習の時間で積極的にアイヌ文化について取り組んでいるし、アイヌ語教室で学ぶ子供も多い。アイヌ文化に興味が湧き自然と誇りが芽生えてくる。差別された歴史も当然学ぶべきではあろう。しかし、何よりこの素晴らしいアイヌの文化、世界観を二風谷の子供たちには肌で感じて自然な形で継いでほしい。そしてそれが二風谷だけではなく、北海道の子供たちみんなに広がってほしいものだ。
「このあいだの雨が晴れるやつある?」と3人のうちの、ひとりの女の子が高野さんに言う。「ああ、あるよ」と取り出したそれは「レラスイエプ」(風・まわす・もの)というもの。長さ1mほどの木の柄の先に1mほどのひもがついており、ひもの先にはアイヌ文様の入った笹カマのような形の木片がついている。これを頭上で勢い良くぐるんぐるん廻せば、雨のときは晴れ上がり、日照りの時は雨が降るという。雨がまだ降る中で、一所懸命廻しているこの女の子をみていたら、レラスイエプが地球も救ってくれるような気がして、心がどんどん晴れてゆくのがわかった。 |