「二風谷の高野民芸」(2004.8)

 私の住んでいるシムカップ村から、南下すること1時間。平取町の沙流川のほとりに二風谷(にぶたに)はある。沙流川はアイヌ語でシシリムカ。シシリムカは「本当に・河口が・つまる」という意味なのに、大きなダムを作ってしまったからさあ大変。わずか数年でダム湖は堆砂が著しく、何やらショベルカーとトラックで掘り返している有様だ。一度カヌーで沙流川からこのダム湖に入ってみたが、砂だらけの湖岸で車がスタックしてピックアップに難儀した。二風谷という所は冬も雪が少なくて暖かい。シムカップからわずか1時間の距離なのに真冬に行くと同じ北海道なのかと疑いたくなる。かたや連日マイナス20℃の世界なのに、二風谷に行くと畑の草が見えている。これで秋には沙流川をたくさんの鮭があがってきていたのだから、沙流川沿いに多くのアイヌ部落が点在していた理由がわかる。間違ってもシムカップには住まんわな。

 8月31日は本州で大暴れした台風16号が昼頃には北海道に上陸するという日であった。朝からシムカップは雨風が強くなりはじめていたが、二風谷の高野さんにお話を聞かせていただけるようお願いしていたので、少し心配ではあったが出かけることにした。高野さんはアイヌ民芸の彫刻師で、二風谷に「高野民芸」を開いている。数年前にこの店でアイヌ文様の民具に魅せられて、夏だけ開いている私のお店でも置かせていただいている。先日、うちの店に来たお客さんが苫小牧でフェリーに乗る道すがら二風谷に寄るというので、「1週間以内くらいに取材に行きたい」と高野さん宛の伝言を頼んでみた。すると、数日後に高野さんから「8月の30日と9月の3〜5日は不在です」とFAXが帰ってきた。こんなゆったりとした通信もなかなか良いものだ。

 国道沿いの大きく赤い看板に白で「二風谷」の文字が見える。これを左に入るとすぐ左にひっそりと「高野民芸」はある。よく見ないと営業しているのか見逃してしまいそうなお店だが、オーラが出ている渋い店構えなのだ。

 高野民芸に入ると、いつものように人なつっこい笑顔で高野繁廣さんが迎えてくれた。昭和25年、東京日野市生まれの54才。アイヌ式に言うとシャモ(和人)である。長髪を後ろでしばり、髭を生やしたクラフトマンの風貌がこの渋い店によく似合う。ショーウインドウや壁には高野さんの手による素晴らしいアイヌ民具、盆(イタ)や器(ニマ)、短刀(マキリ)などが所狭しと並んでいる。アイヌ刺繍やアイヌ伝統のアッシ織りは妻の啓子さんの手によるものだ。高野民芸にはいわゆる熊が鮭をくわえてる彫り物や、ニポポなど、お土産物屋で目にするようなものは何一つない。あるのはアイヌ民族が生活の中で使ってきた民具だけだ。そして、そのひとつひとつにアイヌの物語が宿っている。例えば、「アイヌ文様には悪いものを寄せつけない魔除けの意味があり、お盆や器の文様は上の食べ物や飲み物を浄化してくれるし、袖や襟について着物の文様は病を除けてくれる。」「アイヌの赤ん坊用のおしゃぶり(テクコクペ)は増血剤になるはんの木で出来ている。これは大安の日に山で枝を切って作る。」「アイヌの楽器トンコリは実は楽器ではなく子供を亡くした母親が魂を慰めるために作った道具である。」などなど書き出すときりがない。それはまさにアイヌ文化そのものだ。2年ほど前に阿寒湖畔で軒を連ねる40軒もの店を回ってみたが、ついにどこにも高野民芸にあるようなアイヌの民芸品は見られなかった。あったのは、高野さんの盆(イタ)を扱うお店ただ1軒と、鍵の掛かったウインドウの中で非売品として扱われている骨董扱いの数点だけであった。

 台風の風が少し強くなってきた。そろそろ苫小牧あたりにへ上陸する頃である。お店の戸の大きなガラスが揺れる中で、東京生まれの高野さんがなぜここで店を開いているのか少し伺ってみることにした。

 地元東京の工業高校を卒業し家業の電気店で働いていた高野さんは22才の時、昭和47年8月に家出同然で北海道へ旅に出た。当時はカニ族ブームで国鉄の周遊券片手に北海道を旅する若者も多かったが、手持ちはわずか3万でリュックに寝袋ひとつきりのヒッチハイク専門は珍しかった。「摩周湖には必ず行け」という北海道旅行の経験がある友人の言葉通り、釧路からまず摩周湖に向かい、後は拾った車の行き先まかせ。摩周湖から帯広〜広尾〜様似〜富川とたどり、10日ほど後に偶然降ろされたのが二風谷だった。できたばかりの「萱野茂アイヌ博物館」を見た後、軒先を借りて眠ろうとあるお店に声を掛けた。「熊に食われるから家で泊まれ」と言ってくれたのが、貝澤民芸を経営していた当時37才の貝澤守幸さんだった。当時の二風谷は、札幌、千歳から道東へ抜ける唯一のルートであったため多くの観光客が立ち寄り、景気も良かった。「飯炊きできるか?」と聞かれて次の日からは、貝澤民芸の炊事係として働いていた。しばらく働くうちに、二風谷で暮らすことを決意し、付き合っていた当時19才の啓子さんを迎えに東京へ戻って小さな式を済ませ、1週間後にはフェリーで東京を発った。当時北海道はまだまだ海の向こうの遠い国。両親や友人との別れは若い啓子さんにはつらかった。そして、高野さん夫妻は、二風谷の暮らしに徐々に馴染んでいった。守幸さんに正式に弟子入りして木彫の修業に明け暮れ、夢中で技術を身につけた。しかし、5年後に、その守幸さんが心筋梗塞で急逝してしまう。守幸さんの死後は、守幸さんの妻の雪子さんと共に貝澤民芸の屋台骨を支え、その2年後に独立して国道沿いに「高野民芸」を構え、さらに3年後には、今の場所に店を移した。二風谷に来てからちょうど10年後のことだった。

                     

 高野さんのお話を伺っていて、ひとつの疑問が頭をもたげる。ヒッチハイクの2トン牧草トラックから偶然降ろされただけの二風谷で、一生暮らす決断を高野さんはどうしてできたのだろうか。高野さんが二風谷で暮らそうと思ったのは、アイヌ彫刻に魅力を感じたからだらうか…。私の質問に高野さんはきっぱりとこう答えた。「やっぱり”人”だね。」師匠貝澤守幸さんとの出会いがすべてを決断させた。弟子入りする際には、「俺が大工になったらおまえも大工にならんとダメだぞ。石屋になったら石屋だ。」と言われたという。なるほど、弟子に入るといことはそういうことなのか。

 ところで、アイヌの世界では水や火や風や動物、植物、道具に至るまでが神であるという考えである。これは日本人の宗教観である八百ろずの神の原型と言うべきものだ。昔は古老たちが週に3回も4回もカムイノミ(神への祈りの儀式)を行っていた。古老たちはきちんと手順に従って、猟に入る前、木を切る前、あらゆる場面で火の神や水の神への祈りを怠らなかった。しかし、これらも現在では形骸化していると同時にどんどん省略されてしまっているという。人間が日々の暮らしの中で最も大切にしてきた神への祈りは、経済優先社会の中ではすっかり無力になってしまった。本来神への祈りを捧げるべき祭りはただの経済効果のためのイベントに成り下がってしまっている。ここに現代社会の歪みが凝縮されているように感じる。自然の中で、地球の上で、生かされているという感覚を現代人はすっかり忘れてしまっている。この感覚をアイヌの世界観は教えてくれるのだ。本当に、よさこいソーランは一体何をおまつりしているというのか。

そろそろ日も傾いてきた。風も治まり、台風もどうやら大事なく過ぎ去ろうとしているようだ。そろそろ帰ろうかと立ち上がった時に、小学生が3人、普段からそうしているのだろう、何も言わずにどかどか入ってきた。そして、そのうち2人の男の子は当然のようにイスに座ってゲームボーイをはじめた。聞けば3人は守幸さんの曾孫にあたる。高野さんにとっては孫のようなものだ。この10年ほどで二風谷の子供たちの感覚は随分と変わってきているという。学校では総合的な学習の時間で積極的にアイヌ文化について取り組んでいるし、アイヌ語教室で学ぶ子供も多い。アイヌ文化に興味が湧き自然と誇りが芽生えてくる。差別された歴史も当然学ぶべきではあろう。しかし、何よりこの素晴らしいアイヌの文化、世界観を二風谷の子供たちには肌で感じて自然な形で継いでほしい。そしてそれが二風谷だけではなく、北海道の子供たちみんなに広がってほしいものだ。

 「このあいだの雨が晴れるやつある?」と3人のうちの、ひとりの女の子が高野さんに言う。「ああ、あるよ」と取り出したそれは「レラスイエプ」(風・まわす・もの)というもの。長さ1mほどの木の柄の先に1mほどのひもがついており、ひもの先にはアイヌ文様の入った笹カマのような形の木片がついている。これを頭上で勢い良くぐるんぐるん廻せば、雨のときは晴れ上がり、日照りの時は雨が降るという。雨がまだ降る中で、一所懸命廻しているこの女の子をみていたら、レラスイエプが地球も救ってくれるような気がして、心がどんどん晴れてゆくのがわかった。

 
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