2003年から2009年にかけて、ある雑誌にエッセイとスケッチを描かせていただいた。その中からいくつかをご紹介します。少し前になるので、もうなくなってしまったお店なども多いのですが、それも含めて大切な思い出になっています。

「買い物公園の陶器屋さん」(2004.3)

色んな用を足しに、旭川へは良く出かける。そして、あるお気に入りの界隈にもたびたび足を運ぶ。旭川駅前から北へ1キロ真っ直ぐ延びる商店街「平和通り買物公園」は日本で初めての恒久的な歩行者天国で、昭和47年に誕生した。駅前には「西武」や「丸井さん」があり、人通りも多い。最近では・・・ 

「二風谷の高野民芸」(2004.8)

私の住んでいるシムカップ村から、南下すること1時間。平取町の沙流川のほとりに二風谷(にぶたに)はある。沙流川はアイヌ語でシシリムカ。シシリムカは「本当に・河口が・つまる」という意味なのに、大きなダムを作ってしまったからさあ大変・・・ 

「シネマトーラスの赤い椅子」(2005.3)

その頃はまだリゾートに勤めていたので、クリスマス頃からはじまる冬は忙しい日が多かった。大晦日にはカウントダウンの花火をあげたり餅つきをしたり、滞在客へのサービスに毎年同じようなイベントを繰り返していた・・・ 

「日の出湯」(2005.8)

函館は私が北海道に初めて上陸した地だ。19年前、19才の夏の日、中学の同級生と二人で大阪からバイクで北上。富山と秋田駅で蚊に悩まされながら野宿し、3日目に当時まだ運行されていた青函連絡船で函館の地を踏んだ・・・ 

「鬼峠」(2006.3)

午前7時、ニニウへ向かう鬼峠の入口でスノーシューを履く。足元では愛犬くまが早く行こうと急かしている。雪で閉ざされた鬼峠に入るのはこの冬3回目だ。3月になるというのに占冠(シムカップ)の朝は冷える・・・ 

「豊平神社の骨董市」(2006.8)

午前7時、ニニウへ向かう鬼峠の入口でスノーシューを履く。足元では愛犬くまが早く行こうと急かしている。雪で閉ざされた鬼峠に入るのはこの冬3回目だ。3月になるというのに占冠(シムカップ)の朝は冷える・・・ 

「スローフードの国イタリアへ」(2007.3)

イタリア北部の都市トリノにミラノエスペランサ空港からのバスが到着したのはすでに夜中だった。宿泊先のオリンピック選手村(Villaggio Olimpico)は半年前に行われたばかりのトリノオリンピックで選手が宿泊していた施設で、中心街からは数キロ離れた古い街並みの中に・・・ 

「水光園・まぼろしの扉」(2007.8)

帯広は私にとって北海道で一番馴染みの深い町になった。22才から5年あまり続いたトマムでの寮生活。寮の窓からは素晴らしい白樺の並木が見え、風が木をゆらすとざうざうと葉音が聞こえる。休みの日にビールを飲みながら・・・ 

「26年ぶりのアニー・ホール」(2008.5)

私の手元には2冊の映画ノートがある。映画の題名、監督、主演、観た映画館、観た日、制作年と国を書くだけのシンプルなノートだ。中学生の時に堅い表紙の適当な大学ノートに自分で縦線を足して書き出して以来、30年近くも記録し続けている。日記などあまり・・・ 

「黄泉の国・万字」(2008.8)

5月の末に近いある日、岩見沢で用を済ませた私は夕暮れ近くになって帰路についた。占冠まではおよそ2時間ほどの道のりだ。この辺りの地理にあまり明るくない私は、とりあえず夕張をめざして車を走らせる。栗山から夕張に抜ける道は以前にも通ったことがあるし・・・ 

「樽を抱えて海の街へ」(2008.11)

朝目が覚めると窓の外がやけに明るい気がした。ベットを出て寝室のブラインドを上げるとそこには一面の雪景色が広がっており、二階の窓からは鵡川の源流が寒々しく流れているのが見えた。昨夜のうちに積雪は本格的なものとなり、いまだ片づいていないビニールハウスを・・・ 

「旭川銀座商店街」(2009.2)

市場の記憶は鮮明だ。私が生まれた大阪羽曳野の新興住宅地にも1970年代半ばまで市場は存在していた。母に手を引かれ、子どもにとってはかなりの距離を歩いて、何度もその坂の途中にある市場へ通った記憶がある。「羽曳が丘デパート」と洒落た名前のついた市場・・・ 

「一番近い内地・下北」(2009.5)

はじめてバイクで北海道へ渡ったのはもう20年以上前、19歳の時だった。青函連絡船の3時間50分は北海道上陸の心の準備をするにはちょうど良い時間だった。「内地」という言葉は北海道に来て初めて知った。そしてその後、戦時中の日本軍占領下に・・・ 

 
山本敬介・公式サイト 
〒079-2202 北海道勇払郡占冠村字占冠272-15 電話 0167-39-8711