「樽を抱えて海の町へ」(2008.11)

 朝目が覚めると窓の外がやけに明るい気がした。ベットを出て寝室のブラインドを上げるとそこには一面の雪景色が広がっており、二階の窓からは鵡川の源流が寒々しく流れているのが見えた。昨夜のうちに積雪は本格的なものとなり、いまだ片づいていないビニールハウスをすっぽりと包み、フレームをきしませている。11月に入って間もない占冠ではカラマツ林には黄色い葉がまだところどころ残っているのだが、これだけ降れば根雪になるのかもしれない。不思議なことに雪が降ると昨日まで秋だったのがとたんに冬になる。しかし体は突然の冬に慣れていないのでやたらと寒く感じるのだ。鶏が餌を待っているのでおおげさに厚手のジャンバーを着込み、毛糸の帽子をかぶって外に出た。夏の長靴は雪の上ではすぐに足先が冷えてしまう。冬支度をしていない鶏小屋にも雪は吹き込んでおり、いつもは餌を運びに来た私にまとわりつく鶏たちも、ただの一羽も止まり木から降りようともせずに迷惑そうな顔でこちらを見ている。「ごめんごめん」と言いながら餌の屑米を与えて、つぶれそうなハウスの雪を降ろした。

 雪が降ると、それまでのんびりと進めていた冬支度を一気に終わらせてしまわなければならないのだが、今日は出かける約束をしているのでそうもいかない。正月に向けて仲間で集まって鮭のいずし(飯寿司)を漬けるのだ。いずしとは魚と野菜を米と麹で発酵させる北海道のお正月には欠かせない保存食だ。寿司と名前はついているもののメインは魚。代表的なのはハタハタや鮭、ホッケなどで、占冠のような山間地では川魚の山女魚でも作られていたという。昨年はじめて漬け方を教えてもらい、妻の祖母が昔使っていた古い杉の樽に漬けた。家の玄関で2ヶ月近く発酵させてできたいずしの味は素晴らしいもので、ご近所や友人にも評判だった。もうこれがないと正月は迎えられない気さえする。私は四駆の軽自動車の後ろに古い樽を積み込んで、今年初めての雪道をえりもに向けて出発した。

 海に向けて南下するうち、占冠では30センチ近く積もっていた雪はどんどん少なくなり、やがてすっかりみえなくなってしまった。海沿いの広い草原が風に吹かれている様を見ていると、とても今朝の占冠と同じ北海道の景色とは思えない。あらためて我が棲み家は極寒の地であることを知る。富川からえりもまではひたすら海を右手に眺めながらの道のりだ。ふだん海を見ることなく暮らしていると、海が太陽の光できらきらと輝いているのを眺めているだけで幸せな気持ちになる。同時に荒々しい波がテトラポットを砕かんがごとくしぶきをあげているのを見るととてつもなく怖くなる。自分があの波の中にいたらと考えただけでブルブルと心根が震えてしまう。

 えりもに向かう途中には、そんな海と寄り添って暮らす街、浦河町がある。日高支庁があるせいだろうか、小さな街の規模に似合わないほど中心部は整備されている。しかし一歩裏道にはいると古い港町らしい漁師の風情が感じられる街だ。街の中心の国道も海にほど近い場所を通っていて、信号待ちの交差点で海の方に目をやると坂を下った先に、なんの区切りもなくたくさんの船が見えて驚かせてくれる。また、少し町はずれには海岸線の狭い範囲に道路と線路と民家が混在していて、こんぶを干している民家すれすれを一両きりの列車が通り、民家に住む人は線路を通って隣人を訪ねたりしているのだ。実は私にとってこの浦河はもう10年以上前の20代の頃からのなじみ深い街だ。当時は、毎年春になるとえりもの手前にあるアポイ岳を登るためにこの浦河を通っていた。アポイ岳は標高800メートルほどだが、その独特の地質と海で発生する霧の影響で高山植物が多い花の山だ。しかも積雪が少ないので4月になれば夏の装備で登ることが出来る。夏山シーズンの最初を飾るにはもってこいの山で、春にアポイを仲間と登るのが恒例となっていた。

 その日もアポイに向かって友人数名と車を走らせていた。当日はアポイ岳の麓でキャンプをして翌日に登頂を計画していたので、浦河を通りかかったのは午後だった。街に入る少し手前で小さな看板が目に入ってきた。道沿いの低い位置にあるその丸い看板には赤の地に白文字の手書きで「ぱんぱかぱん」と書かれていた。「ぱんぱかぱん」とは小学校の頃誰もが歌ったあのパンのマーチのぱんぱかぱんだろうか。私たちは車をUターンさせて愉快な名前のそのパン屋へ立ち寄ることにした。お店は六角形の民家のような不思議な作り。店の前には広い芝生が広がっていて、大きなゴールデンレトリバーがゆったりと横たわっている。国道沿いなのだがどこか山の上にでも来たような風情だ。店は六角形の店舗部分から奥が長方形に延びていて、なんだか前方後円墳のような形になっている。さらに不思議なことに長方形に延びた先はガラス張りの温室になっているのだ。ここで酵母でも育てているのだろうか?店に入ると定番のあんパン、メロンパン、カレーパン、そしてケーキやラスクなどさまざまなパンが(パン屋だから当然だが)所狭しと並べられている。客が5人も入るとすれ違うのがやっとという小さな店だが、人気があるらしく売り切れの札も目立つ。店主と思われる細身で眼鏡が似合うしゃんとした印象の女性が店と奥の厨房を行ったり来たりしている。小さなレジの周りには日高管内唯一の映画館大黒座や、周辺地域で開かれている写真展の案内、周辺の農家さん製品の情報などがたくさん掲示されていて、このお店がパンを売っているだけではない地域の中心にあるお店だと感じさせてくれた。そして、この時買ったクリームパンはそのあまりのおいしさで、私をすぐさま虜にした。それ以来、「アポイ岳にはぱんぱかぱんのクリームパンがよく似合う」と太宰治の富嶽百景よろしく仲間内ではうそぶかれ、私の周辺では伝説となったのである。

 はじめての「ぱんぱかぱん」との出会いから10年が過ぎ、私はこの細身で眼鏡が似合う店主とひょんなところで出会う事になった。スローフードの仲間で、えりも町で短角牛を育てながらファームインを営んでいる高橋祐之さん主催の交流会でのことだ。長年に渡り、年に1度だけパンを買いに行く憧れのお店の店主と、あらためて言葉を交わすのはなんだか緊張してしまったが、無事に自己紹介をしてもちろんクリームパンのこともお話しできた。店主のお名前は以西明美さんと言い、その語り口からパン作りを通じた地域の食材と人々とをつなぐ熱い思いや強い意志が伝わってきた。それは店を訪ねるたびに私が感じていたとおりで、人となりは自然と体に現れるものだとあらためて思った。そして今年は、えりものいずし作りでもご一緒させていただくことになったのだ。

                               雪の占冠を出発して2時間あまり。浦河の市街に入る手前に“新しい”「ぱんぱかぱん」がある。前の六角形の店舗は手狭になった為、数年前に国道を挟んだ海側に移転したのだ。風情は前の店にかなわないが、新しいお店には海を眺めながらお茶を飲めるスペースもあり、もちろんあのクリームパンや地域の情報もふんだんに置かれている。またしても1年ぶりにお店にお邪魔して、以西さんと挨拶を交わし、クリームパンを買って私は大黒座へ向かった。大黒座では鎌仲ひとみ監督の骨のあるドキュメンタリー「ヒバクシャ」が上映されていた。今までも数度にわたって大黒座を訪れていたが、時間が合わなかったり映画が子供向けだったりで、そのたびに残念な思いで館の中を覗き込んでいた。今回は映画鑑賞のため、少し余裕を持って占冠を出てきたのだ。建物が意外に新しいので流行のミニシアターかと思いきや90年続く老舗の映画館だと、風が強いため自動ドアを手動で開け閉めしていた四代目館主の三上雅弘さんが説明してくれた。小さな館の中は映画を愛する市民の思いに満ちていてとても心地よく鑑賞させていただいた。映画館は観客なしではもちろん成り立たない。人口が1万5千に満たない浦河で映画館を続けている三上さんの熱意はクリームパンと共に私の中で伝説になった。

 浦河からえりも岬までは小一時間。宿泊先のユースに到着したとき、すでに陽はとっぷりと暮れていた。えりもは風が強いことで有名な土地だが、この日は特に強く、参加者の一人は買ってきたばかりのプラスティックの桶を岬で飛ばされてしまったと笑いながら話していた。先に到着していた以西さんと大黒座のことなど話しているうちに宴は始まり、いずしづくりを楽しみに東京や道内各地から集まった面々は、遅くまで話に花を咲かせた。翌朝は、風もなく良く晴れ渡り、えりも岬からは青い海と青い空が一望できた。集まった15名は地元のいずし名人の母さんの指導の元、野菜を切り、鮭を切り、「ダイコン、ニンジン、ザラメ、コウジ、シャケ、ショウガ、ゴハン、コウジ…」と呪文のように唱えながら順番に樽に詰めていく。たまに順番を間違えても気にせず詰める。その年の気候を感じて塩や麹の量は調整するのだが、こればかりは長年の経験が物を言う。漬け終わった樽には重しを乗せて45日間待つ。放っておくわけではなく、発酵の様子を見ながら置く場所を変えたり温度管理を怠ってはいけない。発酵させる人の愛情と土地の気候で味も変わるのだろう。

 私は、海と共に暮らす人々の強さと寛容さに憧れる。人間が決して太刀打ちできない優しさと怖さを持った海に接して暮らしている人は一概に心が大きいように思うのだ。自然に対する尊敬と畏れは人間を潔くする。人間の力ではどうにもならないこと、それを受け入れることを現代の人間は忘れてしまったのではないだろうか。海沿いの街でいただいた出会いや想いも一緒に樽の中に漬け込んで、今年もきっとおいしいいずしができる。来年も樽を抱えて海の街を訪ねよう。
   
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