「日乃出湯」」(2005.8)

 函館は私が北海道に初めて上陸した地だ。19年前、19才の夏の日、中学の同級生と二人で大阪からバイクで北上。富山と秋田駅で蚊に悩まされながら野宿し、3日目に当時まだ運行されていた青函連絡船で函館の地を踏んだ。当時北海道はライダーあこがれの地で、バイク乗りはとにかくみんな北を目指して走った。「北海道上陸!」と心の中で言いながら、バイクのステップから足を外して地面につけた感触を今でもふんわりと憶えている。この日は駅前で知り合った年長のライダーと3人、バイクは禁止の函館山にタクシーで登って夜景バックに写真を撮り、タクシー運転手の勧める地下の店でうまい味噌ラーメンを食べた。そして、今ではすっかり改装されてきれいになってしまったが、当時は雑然とした雰囲気があった函館駅のせまいコインロッカー室で、寝袋に潜り込んで眠った。まさか3年後に北海道へ移住することになるとは、この時は夢にも思わなかったが、意外にこの夜の北海道の第1印象がその後の人生を決めたのかも知れない。

 函館の風情が本当に好きになったのは、移住して再度訪れてからだった。カブトムシの角を短くしたような半島がすっぽりと大きな町となっていて、両側にはすぐに海が迫り、角の先の部分に臥牛(がぎゅう)といわれる函館山が横たわっている。函館山のすそは坂道が多いので風景が立ち上がり、異国の雰囲気のある古い建物が遠くに見える海の色でぐっと引き立つのだ。「歴史的建造物」なんていう仰々しいものでなくても、町の中に普通にある木造の建物も良い。古くなり歪み傾いているトタン屋根のほとんどが現役で今でも多くの人々が出入りしている。町に愛着が強く古い気質を持っている人が多いのだろう、紙屋さん、金物屋さんといった商売も、そんな古い建物と共にいまだ健在だ。そしてそんな町への愛着は北海道では珍しい個性的な文化や商売を育んでいる。ついでにいうと私の妻は10才から高校卒業までの多感な時期を函館で過ごしている。彼女にとって函館はこころの故郷であり、私には何かと縁のある土地なのである。

  この春、五稜郭の桜が見たいという妻と函館を訪れた際、かねてから気になっていた湯の川温泉近くの一軒の銭湯を訪れた。湯の川温泉自体は函館市内にあり大型のホテルや旅館がただ建ち並ぶだけで、真っ暗な通りにコンビニが煌々と光っているというような至極つまらない温泉街だが、この温泉街の外れに温泉銭湯「日乃出湯」はある。日乃出湯はいわゆる温泉街の「外湯」のような銭湯だが、温泉街から離れているため観光客が浴衣で訪れるようなことはない。営業時間も朝6時〜夜10時と、ほとんど一日中開いているようなもので、むしろ地元の常連客ばかりが目立つまちの銭湯だ。ちなみに日の出湯の真向かいには猿が温泉に入っているのをみられる「湯の川温泉熱帯植物園」があって、唐突にアロエプレゼントなんてやっていたりして(私も1本もらった)こちらもなかなかに楽しい場所だ。

 さて、暖簾をくぐってドアを入ると靴箱があり、男湯と女湯に分かれる。右側の男湯の引き戸を開け番台のおばさんにお金を払う。中の作りは古そうではあるが、脱衣場と風呂場を仕切る全面ガラスがアルミサッシのためか、割りにこぎれいな印象だ。おきまりの体重計、牛乳の自販機、そして趣ある籐の籠がたくさん積み上げてある。服を籠に収めて、常連らしき客が2人いる風呂場に入った。中央に大きな浴槽がひとつ、そして奥にも小さめの浴槽がある。浴槽のお湯は温泉特有の美しい青で臭いは少し硫黄の香り、お湯に含まれる石灰質のせいだろうか、浴槽のへりは赤茶と白い岩で鍾乳洞のように覆われている。掛け湯をしてから、目の前にある大きな方の浴槽へざぶんと足を入れた。「わあちちちちち」とおもわず小さな声を出し足を引き抜いた。これはとても入れる熱さではない。卑屈な感じで奥の小さな方の浴槽へ。この時、常連たちはきっと「ああこいつ素人だな」と思ったに違いない。こちらは大丈夫だろうとお湯を触ってみたら、こっちも結構熱い。そういえば以前同じく函館の谷地頭(やちがしら)温泉に入った時も、熱くて入れないと思っている大きな浴槽が実は常連には普通の温度で、さらに熱いらしい小さな浴槽には「熱湯」と書かれていて驚いた事がある。漁師町の温泉は熱いと聞いたことがあるが函館もそうなのだろう。気を取り直して、小さい方の浴槽に少し水を差して浸かるが、少しするとすぐにのぼせてきたので、あがって大きな浴槽の脇の壁にもたれて地べたに座った。桶で浴槽のお湯をすくって、足にかけてみたがやっぱりこれは熱すぎる。「きっとこうやって掛け湯を楽しむ温泉かも知れないな」などと思っていたところ、細身だががっちりした筋肉質のごま塩頭漁師風常連がおもむろに立ち上がり、先ほどの熱湯のような大きな浴槽に一気にザブンと入ったではないか!そしてしっかり肩までつかっている。1秒2秒…と心の中で数えてみた。25秒数えたところで浴槽から出た。体は真っ赤になっている。「ひえー入れる温泉なんだ」(当たり前か)そうしているうちにもうひとりの常連もザブン。こちらは1分近く入っていた。すごい…。

                     

 しばらくして、もうそろそろ出ようかと考えたが、やっぱりこの大浴槽に入らなければなるまい。同じ人間だもの入れない道理はない。桶の湯を徐々に体に掛けて馴らしながら、意を決してえい!ザブリ…肩まで入る。ツーンとした皮膚の感覚は熱いのか痛いのかよくわからない。ただ少しでも動けばものすごく熱いので微動だにできない。手の指先が徐々にしびれてくるようだ。1秒2秒…25秒を超えてよしと思い30秒でザバッと出た。体中が真っ赤になったが、何とも言えない爽快感。そしてなんだか一人前になった様な気分。これは癖になる。

 ご主人の岡崎さんに聞いてみると、商売をはじめたのは先々代で大正のはじめごろ。お客はやはりほとんどが常連だそうだ。朝は朝のグループ、夕方は夕方のグループと棲み分けがあるらしい。この常連たちは風呂に入ると言うよりも、あきらかに時間と会話を楽しみに来ている。ごま塩頭の常連がもうひとりの年上の常連の背中を流しながら話していた。「あの散髪屋のおやじ、最近来てるかい?」「ああ、そえば見ないな。」「ありゃ死んだんでないか」口は悪いが人は良い。この常連はあとで入ってきた年輩の常連の背中も流してあげていた。そして本当にみんなマナーが良い。椅子や桶をきちんと元の位置に戻すのは当然だし、脱衣場の籠の整理はもちろん、テレビも自分がつけたら消してから帰る。昔は当たり前だったこういう社会の常識が、ご近所のコミニティと共にいつの間にかなくなってしまった日本にあって、日乃出湯の価値はお湯だけではない。

 函館を行ったら日乃出湯を訪ね、最初に足をつけて「わちちちち」とやってほしい。常連たちはきっと心の中で「ニヤリ」とする。それがコミニティに足を踏み入れる際の儀式なのだ。 おわり

   
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