「スローフードの国イタリアへ」(2007.3)

 イタリア北部の都市トリノにミラノエスペランサ空港からのバスが到着したのはすでに夜中だった。宿泊先のオリンピック選手村(Villaggio Olimpico)は半年前に行われたばかりのトリノオリンピックで選手が宿泊していた施設で、中心街からは数キロ離れた古い街並みの中に外壁の派手な7階建てが何棟も建ち並んでいる。内部はワンフロアーに部屋が5つと、シャワーとトイレが2つずつの、新しいが簡素な作りだった。同行の2名ともども空腹ではあったが、20時間近い移動を終えた今はとにかく眠りたかった。時計は現地時間の午前2時を回っていたが、近くのBAR(バール)のネオンはまだ怪しく点灯しており、扉を開けば何かしらのアルコールとおつまみにはありつけそうではあったが、はじめてのイタリアで夜中にその重たげな扉を開く勇気と気力はもう残っていなかった。  

 夜が明けて、秋のトリノの町が朝霧の中から姿を現しはじめていた。窓を大きく開けると朝焼けのほのかなピンクがかかった、うすいクリーム色の霧がひんやりとした空気とともに部屋に入ってきた。大きく深呼吸をするとようやくはじめてのヨーロッパ、イタリアへ来たという実感が湧いてきた。お腹もペコペコだし、とにかく町へ出てみよう。身支度をして我々3人は石畳の街に吸い込まれていった。

 今回イタリアトリノへ来たのは、ライフワークとして取り組んでいるスローフード運動の大きな催しがあるからだ。スローフード運動は20年前にこのトリノ近郊のブラという小さな町ではじまった運動で、身の回りの食から世界規模のグローバリズムに対抗していこうという非常に懐の深い食の環境運動だ。例えば、今はやりの食育や地産地消などもこの運動の一部と言える。今回私たち3人は会で普及活動をしている「八列とうもろこし」のコミュニティとして、世界中の食コミュニティの人たちと情報交換しにはるばるトリノまでやってきたのだ。はるばるやってきたのは私たちだけではない。ヨーロッパ諸国はもちろんのこと、アフリカ大陸や南北アメリカ大陸、アジアなど世界148の大小さまざまな国々から、約5000人の生産者、400人の大学関係者、そして1000人の料理人がスローフードのネットワークで一同に会するのだ。

   イベントの開会式は午後3時からということなので、3人はトリノ中心部へ向かって歩き始めた。路上にはゴミも多く、周辺はあまり治安が良いという感じではないが、重厚な石畳を踏みしめながら適当な方角へ歩いていく。しばらく歩いても日本のように大きな看板はほとんど見かけることがない。あるのはシックな石造りの景観を阻害しない、ネオンサインや小さな看板ばかり。さらに驚いたのは日本ではお馴染みのコンビニエンスストアやアメリカ企業のチェーンストア、チェーンレストランなどが、まったく見あたらないのである。イタリアから帰ってこのことを妻に話したら「ヨーロッパだもの、あたりまえよ」とこともなげに言われてしまった。妻は若い頃にイギリスやフランスに滞在したことがあるので当たり前に感じるらしいが、すっかりアメリカに毒されているフツウの日本人である私にとっては、この景色は衝撃でさえあった。私もヨーロッパに古い街並みがあることは知っているが、それは特別な歴史的建造物の周辺や特定の地域だけだと思っていた。例えば京都や奈良のように。だからそれ以外の場所には当然アメリカ企業のチェーンストアが赤や黄色の大きな看板を掲げているのだろうと思っていたのだ。しかし、歩いても歩いてもあるのはBAR(バール)と呼ばれるカフェ兼酒場ばかりである。

 イタリア語などまったくできない我ら3人は、空腹を抱えているにも関わらず、BARに入るのを躊躇していた。BARは町の交差点には必ずあるといってもいいくらいに、たくさんある。台北のコンビニよろしく、店の前に立つとほかのBARが必ず見えるほどだ。そしてひとつとして同じ名前、同じ看板を掲げている店はない。一店一店に主人の好みの名前が付けられ、メニューやスタイルも微妙に違うようだ。入ってみようかなとBARの前を通るたびに歩は遅くなるのだが、思い切って入れない。そうこうしているうちに、随分とトリノの中心部に近くなり、行き交う人々は出勤のスタイルという感じになってきた。もう空腹も限界に達した頃、やっと意を決して一軒のBARのドアを押した。入るとヒゲをたくわえた店主が「ボンジョルノ!」と声をかけてくれた。あわてて「ボンジョルノ」と薄笑いを浮かべながら力無い声で返したことで、きっと店主は「ああ、このアジア人たちは不慣れな観光客だな」と理解したであろう。店内のテーブルに手荷物を置き、ショーケースに並んでいるおいしそうなサラミや野菜がたっぷりと挟み込んであるパンを前に3人はうろうろとしていた。見かねた店主はカウンターから出て、ショーケースのフタを下から持ち上げて、中から好きなものを取れと、おしえてくれた。カフェオーレなど飲み物も無事に注文して、3人は前日の機内食以来の、イタリアはじめての食べ物を胃の腑に納めた。お腹が落ち着いたところで店内を見回すと、なるほど朝の慌ただしい時間だけあって客が後を絶たない。ほとんどの客はカウンターの前でお目当てのカプチーノやエスプレッソを注文し、店主と言葉を交わしている。どうやら常連ばかりのようだ。BARはこうして朝のコーヒーから夜遅くお酒を愉しむ人、そしてサッカー観戦を楽しむ人にまで、大切なコミュニケーションの場と飲食を提供している。「あんなに便利なコンビニエンスストアがイタリアにはひとつもないんです。それぞれの業種ごとにさまざまな規制があり、作りたくても作れない。なんとかコンビニをイタリアに」とイタリア在住の日本人がラジオで話しているのを聞いたが、便利さと引き替えに失うものが大きいのは“下手な会話は御法度”の日本のコンビニと比べればわかりそうなものだが。

 世界の食のコミュニティが一堂に会する今回のイベントは「テッラ・マードレ(母なる大地)」と命名されている2年に1度のイベントで、その開会式には148ヶ国約6000人が、色とりどりの民族衣装を身にまとい同時通訳のイヤホンをつけて座っている。北海道から参加したのは私たち3名だけだが、日本全国からは100名以上が参加していた。2年前に帯広で講演してくれたスローフードの創始者カルロ・ペトリーニは、6000人の聴衆を前に、市場経済主義がもたらす地球上の食糧のアンバランスや、地域経済の大切さ、「おいしく、正しく、きれい」といった食の概念を声高らかに語った。そしてこの日から5日間、食と農に関するテーマの意見交換が大小9つのブースで繰り広げられ、私たちはイヤホンから聞こえる日本語通訳を頼りにテーマを選びながら、世界中の食コミュニティによる取り組みや提言に耳を傾けた。 テッラ・マードレ会場の隣では、巨大な食の見本市「サローネ・デル・グースト」が同じく2年おきに行われている。このイベントには、ヨーロッパ中の小さな生産者がこだわって作ったチーズや生ハム、ワインなどさまざまな食品が集められ、生産者自らが店頭にたって生産物のアピールと販売を行っている。この会場の広さが半端ではない。ゆっくりと見て回ると優に3日間はかかりそうである。実際に試食をしながら歩いていると1時間経っても数メートルしか進んでいない。私はオランダのシードの入ったゴーダチーズと黄緑色でしゃれたデザインの山羊チーズを手に入れた。また、会場にはイタリアのワインを中心に、2000種類ものワインの試飲ができるエノテカというコーナーがあり、すごい人気でごったがえしている。私たちもブースへの入場時についてくるカタツムリマーク入りのワイングラスを専用の布製ホルダーで首から下げて、英語のワインリストに悪戦苦闘しながら、バローロ…バローロ…と知っている限り一番高級なイタリアワインの銘柄を呪文のように口ずさみ、まったくの当てずっぽうでその深紅の液体を注いでもらって、至福のひとときを過ごしたのだ。

 さて、帰国を前日に控えた3人は、閉会式のカルロの演説をすっぽかして、小さな列車の旅に出た。トリノから日帰りで行ける距離で地図を眺めていた私の目にジェノバという文字が映った。ジェノバ、そう母を訪ねて三千里の舞台だ。地中海を見てみたいという思いもあり、ほかの2人に伝えると行ってみようということになった。その前にスローフード発祥の町、ブラに立ち寄ることで大まかな行程の目処をつけた。とはいっても、列車がどのくらいの頻度で出ているのか予想もつかない。ブックスタンドで当日の朝購入した時刻表とにらめっこしながら、駅へ向かった。当初乗ろうと思っていた列車は日曜日だけの運行ということがわかり、駅で1時間30分の足止めを食ったが、ゆっくりとカフェで朝食をとりスケッチなどしながら列車を待つ。そしていよいよ10時23分トリノ・リンゴット発ブラ行きの列車に乗り込んだ。1時間ほどでブラに到着。北海道でいうと芽室や新得駅前といった風情だ。駅前のレストランでブラでしか食べられない生のソーセージ「サルチッチャ・ディ・ブラ」を食べようという計画だったが、あいにくレストランはお休み。あきらめて駅に戻ろうとしたときレストランの隣に肉屋を発見した。見ればガラスのドアにはサルチッチャ・ディ・ブラのステッカーがあるではないか。ドアを押して中に入ってみると肉のショーケースの中央にサルチッチャ・ディ・ブラがとぐろを巻いたヘビか巨大なカタツムリのように鎮座していた。しかし、このソーセージが本当に生で食べてよいものなのか、今ひとつ自信が持てない。私たちの勘違いで実際は焼いて食べなければならないソーセージを生で食べたりすればジェノバへ向かう列車の中でのたうち回ることになるかもしれない。身振り手振りで白衣を着た大柄な男の店員に「このまま食べて本当に大丈夫か?」と聞いてみると、どうやら「もちろん」と言っているようにみえた。それでは、と40センチほどを4ユーロで購入し、ブラを後にした。列車に乗り込んで席に座ると、駅のBARで買ったビラ(ビール)の栓を抜いて、早速その生ソーセージの包みを開いた。とぐろを巻いたそれを伸ばして5センチほどに切り分ける。そして、プルプルしているのを優しくつまんで、薄皮の中のきれいな赤身肉を指でしぼり出し、おそるおそる口に運んでみた。うまい。おもわずつぶやいた。これはまさしくスパイスの利いた肉の刺身である。

 3人を乗せた列車は、絵に描いたような石造りの教会がある小さな村や、一面葡萄畑の丘がいくつもつらなる田園風景を抜けて走る。空には眩しいくらいの秋の青空が広がっている。車窓から眺める風景は、同じく自然豊かではあるが、北海道のそれとはあきらかに違う。長い年月をかけて人々はそこに暮らし、景色と人は徐々になじんできた。それは工業文明以前に築かれた気の遠くなるような時間が作った、そんな風景だった。北海道の景色は100年あまりで急激に変わってきた。それは確かにこの時代にあって当然のことなのかもしれないが、自然と折り合いをつけて行くという意味でこれはやはり早すぎる。ヨーロッパの歴史は確かに自然を征服してきた歴史であり、風景もすべて人間の手が加わったものかもしれないが、田園風景が美しく人の心に響くのは、人間も自然の一員として時間をかけて風景を作ってきたからに他ならないと、ビールで少しほろ酔い加減の頭でぼんやりと考えていた。山あいの谷底に眠る街を、はるか高いところから見ながら列車は地中海に近づき、潮の香りが強くなってきた。
   
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