桑畑の集落は、山から急な斜面が海まで落ちており、海沿いのわずかな狭い道の両側に家が隙間なく建ち並んでいる。国道は家々の屋根をかすめるようにバイパスとして通り、集落から山の中腹にある神社に通じる参道には国道の下を通る短いトンネルが設けられている。これといった名所のないのどかな漁村には、わずらわしい観光客などいるはずもなく、私にとって申し分のない環境だった。当初は移動を続ける予定でいたのだが、あまりの心地よさに根が生えてしまい数日をこの桑畑でぶらぶらと過ごした。 何もないようだがその場所に留まっていると色んなものが見えてくるから不思議だ。朝目が覚めて境内から見渡すと、周りの山の中に何やら古い蔵が建ち並んでいる。神社の上からほおっかむりをして、鮮やかな黄色い水仙を片手に降りてきた山菜採りのお年寄りが、津波から財産を守るために高台に建てられた古い蔵だと教えてくれた。また、テントのすぐ近くで、カモシカがまるで人間のようにこちらをじっと見つめていたことがあった。年老いたカモシカはしばらくこちらを眺め、やがて足を引きずりながら山の中に消えていった。また、集落の細い道でスケッチしていたら、日焼けした顔の眉の濃いおじさんから声を掛けられた。金のない若者の貧乏旅行と思われたらしく、家に招かれお茶とパンをご馳走になった。桑畑の小学校が閉校になり、その跡地がつい最近温泉になったこと、テレビは北海道の電波の方がきれいに入るので、函館と同じ番組を見ていること、函館が身近な都市であることなど、短い時間だったが集落の話を聞かせてくれた。
数日後、テントはそのままに、バスで日本三大霊場のひとつ恐山(おそれざん)を訪れることにした。恐山を目指すのは、それこそ富士の樹海を目指すようなものだと勝手に思って緊張していたのだが、むつ市で恐山行きのバスに乗り継いでみると、意外にも車内は観光目的といった雰囲気だ。途中バスは湧き水のある冷水バス停で休憩しさらに山道を登っていくと、40分ほどでカルデラ湖である宇曽利(うそり)湖が見えて来た。恐山のオソレとは、アイヌ語のウソリ(入江)が転訛したものだとバスの音声ガイドが説明してくれた。到着した恐山は、硫黄の強い臭いが立ちこめ、ごつごつした火山岩と白い砂のような地面に赤い橋や恐山菩提寺などが点在しており、まさしく死後の世界といった景色。恐山全体が火山地質で、宇曽利湖の水も強い酸性となっており、湖に生息できるのは特異な変異を遂げたウグイただ1種類。何もかもが死を連想させる。 下りのバスまでは3時間ほどある。宇曽利湖を遊歩道で一周して境内に入ることも出来るというので、歩いてみることにする。私以外には誰ひとり歩く人は見られなかったが、その遊歩道は思いがけず素晴らしい新緑のブナの森の中にあった。それは恐山の死のイメージとは対照的な生に満ちあふれた世界で、芽吹きの早いブナの若い葉が、日の光を浴びて輝いていた。また、湖に流れ込む小さな沢では、宇曽利湖ウグイが集まって産卵していた。遊歩道を1時間半ほど歩くとぽっかりと賽の河原に出て、それから本格的に菩提寺の境内を見て歩く。すると「イタコ口寄せ」と小さな看板が出ていて笑ってしまった。イタコと呼ばれる死者の魂を自身に乗り移らせてその言葉を語る巫女も「営業」しているらしく、この日はすでに「本日終了」の札がかかっていた。
5月、6年ぶりに東北へフェリーで渡った。苫小牧から八戸に入り岩手での用を済ませたあと、下北を回って帰ることにした。八戸のフェリーターミナルに友人を降ろしたのが夜の10時。雨が降り出した深夜の国道を、下北半島の斧の柄の部分を太平洋沿いに北上する。ラジオの天気予報の「さんぱちかみきた」という言葉が耳につくが「さんぱち」は三沢と八戸のことだろうかと合点する。はじめて訪れる寺山修司と米軍基地のまち三沢。駅前では大きな荷物を持った米兵が10名ほど、赴任してきたのだろうか迎えを待っていた。古いアーケードのある商店街は米軍基地とはかけ離れた東北の田舎町の雰囲気だ。ニュースではいつも耳にしている六ヶ所村もはじめて通過する。日本原燃の核燃料再処理工場がこれほど巨大なものだとは思わなかった。深夜にもかかわらず煌々とライトを照らし稼働している工場に驚きと恐怖を感じる。そして、大畑。時間はすでに深夜2時を回っている。大畑の古い商店街は6年前よりさらに空き店舗が増えているが健在であった。深夜2時の商店街には当然人影はなく、街灯に照らし出されるだけの商店街はまるで無人の映画セットのようだ。雨上がりの道路に車を止めて、湿気を含んだ少し生ぬるい風を感じながら夢中でシャッターを切る。野良犬が一匹、吠えもせず遠くからこちらのようすを窺っていた。 桑畑の集落も変わりはなく、このあたりで空が青くなり始めた。懐かしい集落の細い道を静かに通り抜ける。そして眠い目をこすりながら大間のフェリーターミナルに着く頃にはすっかり明るくなっていた。この大間函館航路は昨年、運行会社の撤退により廃止の危機に見舞われた。存続を求める住民運動の末、現在は行政の支援で当面の運行が続けられている。桑畑のおじさんが話していたように大間の人々にとって、この航路は生活に必要不可欠なものなのだろう。そして、同じく大間では1984年に誘致が町議会で決議されてから24年に渡って凍結されていた原子力発電所が2014年の運転開始を目指して昨年着工した。下北半島がまとっている本州の最北端という悲哀、それとは対照的な希望の大地としての北海道。そして、それをつなぐ1時間40分の短い航路に私が魅力を感じるのは、その紙一重の表裏が、実は一体であるという事に気付いているからかも知れない。