そんな帯広の町はずれに、私の好きな温泉はあった。帯広から釧路へ向けて国道38号線を少し走ると左手に看板がある。「水光園」とかかれてはいるが施設は見あたらない。看板の後ろには鬱蒼として森が広がっているだけだ。車がすれ違えるのだろうかというような細い道を森の中に入っていくと何やら釣り堀のような池がある。今では使われていない釣り堀は、きっとレジャーの少なかった昭和40年代あたりには家族連れで賑わっていたのだろう。釣りを楽しんで温泉に入り、ジンギスカンを食べる。そんな家族の姿が目に浮かぶようだ。細い道を奥まで進むと駐車場があり、古い建物がやっと目の前に表れた。重いガラス戸を押して中にはいると錆びかけた鉄製のロッカーが置かれている。しかし靴を脱いでそのロッカーに入れる人はあまりおらず、靴はそのまま玄関に雑然と置かれている。常連客がほとんどのこの温泉で靴を盗まれる不安などない、そんな雰囲気にあふれている。スリッパに履き替えてさらに透明なガラスドアを押して中に入る。右手にはすぐに受付カウンターがあり、初老のおじさんが迎えてくれる。カウンターは広くて立派で、往時の盛況ぶりを偲ばせる。後ろの壁には魚の絵がかけられている。別の壁には十勝川にも棲んでいた巨大魚イトウの剥製も掛けられていたから、きっとオーナーは釣り好きだったのだろう。券売機で銭湯と同じ390円のチケットを買い、フロントに渡す。ロビーにはアイスクリームや飲み物、シャンプーやタオルなど売っている小さな売店があり、ゲーム機がたくさん並んでいる。ゲーム機の中にひときわ懐かしい乗車型のものがある。たしかあれはウルトラマンタロウだ。ほかのウルトラマンとは頭の角が違う。私の世代には一目瞭然だ。キャラクターの背にのってガタガタと一定時間揺れるだけの機械は、いまのゲームセンターではまずお目にかかることはない。きっとまだお金を入れると動くであろうウルトラマンタロウ。こんなものに私も昔は乗りたくてしょうがなかった。
白い壁の廊下を何度か曲がると、暖簾が掛かっている。モール温泉独特の少しかびくさいような臭いと蒸気が充満している脱衣場で服を脱ぎ、広い浴場へはいる。手前には幾筋ものシャワーやカランが並んでおり、中央には丸いジャグジー、右側には、瀧のように岩づたいにお湯が流れ出ているメインの大きな浴槽がある。シャワーで汗を流して、浴槽の脇に座り桶で湯をかぶる。うす茶色でつるりとしたモール温泉のお湯が肌をすべる。少し熱めのお湯に肩まで身を沈め、ふーっと息を吐く。鼻からも茶色い蒸気が入ってくるようで、全身と内臓までもがその植物質の膜で覆われていくような気になる。 その日も休日でたしか昼下がりにこのお湯を楽しんでいた。のぼせてきたので浴槽の端に沿ってある幅20センチほどの石の上に腰掛けたり、寝そべったりしていたその時、男湯と女湯を仕切っている右側の壁の一番奥にあるアルミサッシの扉が開いた。お掃除のおばさんでも入ってきたのかなと思って見ると、なんと全裸の女性、年の頃は50才くらいの女性が、頭にタオルを巻き、小さなタオル1枚を胸の前にあてて入ってくるではないか!驚いていると、その女性の方に歩み寄るおじさんがいる。おじさんは特にその全裸のおばさんに声をかけるでもなく、その扉近くの床の上におばさんに背を向けて腰を下ろした。するとそのおばさんはタオルに石鹸をつけておじさんの背中を流し始めたではないか。思わぬ展開にただただ驚いて見ていたが、あまりじろじろと見ているわけにもいかず、何喰わぬ顔で自分も身体を洗ったり、必要以上に泡の大きなジャグジーに入ってみたりして落ち着かない時を過ごした。周りのお客はというと特に驚いている様子もなく、淡々とこちらも自分の身体をながしたりお湯につかったりしてる。近所に住む知り合いにこの事を聞いてみた。するとこれは特に珍しいことではなく、昼の時間にはよく見られる光景だというのだ。男湯と女湯の境、それは公衆道徳がうるさくいわれている現代社会において絶対的なもののはずである。それがこうもあっさりと自然に破られている事に驚いた。
数年前、青森の酸ヶ湯温泉にある有名な千人風呂に入る機会があった。混浴の風呂というのは男にとってやはりどきどきするもので、女性の姿をつい目で追ってしまうのはしかたがない。それでも女性がお風呂に入るときや出るときは目を伏せる、必要以上に近づかないなど暗黙のルールはある。ここのお風呂は一応は湯船の真ん中で男女に区切られており、それぞれ男女が近づきすぎないように配慮されている。ところがこの日驚いたことに、ある若い男が、その区切りギリギリのところに陣取って、臆面もなく女性が入ってくる方を凝視しているのだ。これでは入ってきた女性は湯船に入れない。あまりにひどい態度なので、勇気を出して私はその男に忠告した。「そんなところでじっと見ていたら女の人が入ってこられないじゃないか」それに対してその若い男が言うには「ここは境界線の中だから自分はルールを違反しているわけではない」というのだ。あいた口がふさがらなかった。男は渋々退散したが、自分さえよければ良い、ルールさえ守っていれば正しい、そんな世の中で混浴というような緩やかな境界線を作っていくのは困難だ。