「黄泉の国・万字」(2008.8)

 5月の末に近いある日、岩見沢で用を済ませた私は夕暮れ近くになって帰路についた。占冠まではおよそ2時間ほどの道のりだ。この辺りの地理にあまり明るくない私は、とりあえず夕張をめざして車を走らせる。栗山から夕張に抜ける道は以前にも通ったことがあるし、きっとこれが一番の近道だろう。青看板の文字だけをたよりに車を走らせていくうち、見慣れない風景が目の前に現れ始めた。道の両側に古い立派な幹を持ったリンゴと思われる樹が並んでいる。果樹園は余市あたりでしか目にしたことがない。どうやら知らない道に迷い込んでしまったらしい。

 よく見るとリンゴには花が咲いており、車の窓からでも甘い花の香りを感じることができる。あたりには夕暮れのピンク色のもやが立ちこめ始めており、湿気を伴ってますます花の芳香が強く感じられる。立派な舗装の幹線道路のようだがほかに通る車もなく辺りはひっそりとしてる。私はリンゴ園の脇の草の上に車を止めた。車を降りると香りに誘われて花に近づいてみる。思ったよりも大きなリンゴの花は美しい桜色で、もやの水分がしずくとなってその花びらを濡らしている。車に戻って地図を確認すると、このまま直進すれば夕張に抜けられることがわかった。そして車を走らせること数分、「万字」という地名が目に入ってきた。「万字」とはあの卍だろうか。不思議な印象を受けた私は道を逸れて万字の町に吸い込まれていった。

 橋を渡るとすぐ右側に家が見える。大きな長屋のような建物でかなり古い。建物のこちら側には人が住んでいるようなのだが、向こう側半分は雪の重みでなのか、青いトタンの屋根が大きく破れ、中から折れた柱が見えている。今にも崩れてしまいそうだ。町の入り口にこのような廃屋がさらされていることで、私は少し恐ろしい気持ちになりながら、古い平屋が通り沿いにぽつぽつと並ぶ閑散とした町中へさらに車を進めた。通りの真ん中あたりに無意味に広いアスファルトのスペースがあり、真ん中にぽつんと赤い屋根の建物が建っている。見ると建物の前に「万字線万字駅跡碑」という機関車をデザインした洒落た碑があった。駅舎だった建物はいまでは簡易郵便局として使われているらしく、建物の前に赤いポストがある。そこにはたくさんの猫が棲みついていて、猫のおしっこの臭いがした。

 猫としばらく話をしてみたが要領を得ないので、さらに町の奥へと進み、やたらと高さのある立派な橋のたもとで車を降りた。橋のたもとには左にまっすぐ降りてゆく細い道があり看板が出ている。そこには小さく「万字炭山」と書かれていた。そうか、ここ万字は炭坑の町だったのだ。もちろん炭坑はとっくに閉鎖されている。でなければ駅に猫は棲んでいないだろう。

 日が落ちかけているこの時間に炭坑への道を進む勇気はなく、橋を渡って幹線道路へ戻る。そこにも、古いの炭坑住宅が並んでいて、その大半がコンパネで窓を閉じられている。それでもぽつぽつと生活の明かりが見え、商店だったであろう雰囲気の建物や公民館も見られる。そして集落の終わりあたりの坂の途中には、大きな大きな小学校があった。炭坑で栄えた時代多くの小学生がここに通い、運動会ではきっと大きな歓声がこの山間の校庭に響いたのだろう。すでに閉校して18年。その巨大な廃墟は驚くべき事に今も朽ちるにまかされているのだ。

       

 ふたたび万字を訪れたのは8月の暑い日だった。午前中に到着してまずは万字炭山を探してみることにした。炭坑はもっと山の奥にあるのだろうと勝手に思いこんでいた私は、万字線終点の万字炭山駅跡や万字炭山の跡が、先日通った道のすぐ近くにあることに拍子抜けしてしまった。

 炭坑だった場所には今も古いコンクリートの構造物が半分土に埋もれながらも残されていた。しかしこのコンクリートの遺跡には特に説明もなく、炭坑跡全体はこぎれいな公園に生まれ変わるべく工事が続けられていた。誰も散策することのない長大な散策路と、広い駐車場。近くにいた工事関係者に炭坑のことを尋ねてみたが、万字炭山についてまったく知識がないようだ。税金を使った無意味な公共工事がひっそりと続けられている事に腹を立てながら、でもこれが日本の現状だと自分に言い聞かせる。

 ズリ山跡に登って万字全体を眺めた後、炭山跡から万字の町に向かって少し進んでみた。めったに車が通ることもないのだろう、スケッチできそうな景色を探しながらゆっくりと通る私の車に、作業着姿の男性がほおっかむりの奥から鋭い視線を投げかける。私は車を止めて、こんにちはと話しかけた。最初は怪訝そうにしていた男性は、私が万字と同じような雪深い小さな村住まいだと知ると、徐々に打ち解けて話しはじめた。男性は元炭坑マンで今は年金暮らし。万字には最盛期には6000人もの人が暮らしていたという。町中にあった映画館では札幌よりも早く最新の映画が上映されるほどで、札幌へ遊びに行く必要もなかったし、遊郭まであったという。炭山は徐々に産出量が減り、昭和51年に閉山。国鉄万字線も昭和60年に廃止になった。しかし、男性はすっかり寂れてしまった万字の今の暮らしを悲観するどころか、「静かだし水はうまいし、春から秋まで山菜を採って暮らせる万字がいい。冬は雪が多いから冬眠してるだけさ」と笑顔を見せてくれた。それから元は酒屋だったという大きなコンクリート造りの廃屋をスケッチして、万字駅跡の郵便局を再訪してみた。前と同じように入り口付近には猫が4匹寝そべっている。簡易郵便局の女性職員は仕事の手を止めて、駅を訪れる鉄道マニアのことなどを笑顔で話してくれた。駅のホームが見えないので訪ねると、駅舎から階段を少し降りた所に残っているという。藤のツタが覆っている階段をくぐり降りてみるとたしかにホームがあった。炭山に続くはずの線路はイタドリに埋もれていた。しばらくすると、バタバタバタとエンジン音がしてオレンジの耕耘機が近づいてきた。耕耘機は郵便局の真ん前に止まり大きなめがねをかけたおばあちゃんがどっこいしょと降りてきた。片手には野菜、片手には小銭が大量にはいったビニール袋を下げている。「ここには小銭を数える機械がないから美留渡の局へ持っていって」と女性職員言われて、「そうかそれじゃあ仕方ないね。これ食べて」と野菜を窓口に置いてバタバタバタと帰っていった。

                     

 郵便局を立ち去ろうとした時、「お菊人形はお参りされました?」とこの女性職員が言った。「お菊人形‥ですか。」そういえば、5月に訪れたとき町の入り口にその文字を見たような気がする。「少し下がったところに萬年寺というお寺があるの。そこにお菊人形があるから是非お参りしていってちょうだい。」このお菊人形は万字に住んでいた鈴木永吉さんが大正7年に狸小路で幼い妹菊子に買ってあげたおかっぱ頭のお人形。菊子は毎日この人形で遊んでいたが、不幸にも3歳で病死した。両親は棺の中にこの人形を入れてやるのを悲しみのあまり忘れてしまい、お骨と一緒に仏壇にまつっているうちに髪の毛が伸びだしたと言われている。萬年寺の本堂は閉じられており、横の玄関のフォンを押した。閉まっていたら呼べばお参りできるからとさきほどの女性職員に言われていたからだ。「写真はだめですがお参りはできますよ。」お寺の方は静かに言った。内心どきどきしながらまずは中央のご本尊をお参りし、次に右手に祀ってあるお菊人形の前に進んだ。一目見て本当に驚いた。目に力があり、まるで生きているようなのだ。怖いとかそういった類のものではないが、とにかく長い間顔を見ていられない迫力だ。私は線香をあげしばし手を合わせた。 お菊人形のことは聞いたことがあったし、全国にいくつかあるのだろうとその時は思っていたのだが、この萬年寺のお菊人形こそが全国的に有名なお菊人形なのだと後で知り驚いた。

 私はどうして偶然通りかかっただけの万字にこうも強く惹かれたのだろうか。それは、5月末の夕暮れ時と関係があるように思う。夏至に向けてどんどん日が長くなるこの時期の北海道は、いつまでも薄暮が続きなかなか日が暮れない。この長い夕暮れの中で、繁栄の面影をわずかに残しながら朽ちてゆく万字の町は私の心に強く迫ってきた。私が育った大阪の南部には古墳が多いのだが、それは奈良の都から見て大阪方面が二上山越しに日が落ちる方角だからだと父から聞いた事がある。太陽が落ちるということ、それは“死”を意味する。即ち日暮れ時は黄泉の国への扉が開く時間だ。

   夕暮れ時の万字の町で、巨大な廃墟となった学校や廃屋や駅のホームが解体されることなく朽ちていく様は、たしかに異様で悲しくなる景色だ。きっと右肩上がりの思考しか持たない現代の日本人には我慢がならないものだろう。しかし、私はこれを恐れるべきではないと思うのだ。町が、学校が、風や雨や雪や草やツタによって徐々に風化していく。長い時間をかけて崩壊し分解されていくその姿は野生動物の自然死にも似て、本来はあたりまえの事なのではないだろうか。開拓時代の廃屋が数多くある村に暮らす私は、人の遺した物が自然に抱かれ還っていくことを受け入れていきたいと思っているのだ。
   
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